ご本願を味わう 第三十五願

女人往生の願

【浄土真宗の教え】

漢文
設我得仏十方無量不可思議諸仏世界其有女人聞我名字歓喜信楽発菩提心厭悪女身寿終之後復為女像者不取正覚
浄土真宗聖典(注釈版)
 たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。
現代語版
 わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界の女性が、わたしの名を聞いて喜び信じ、さとりを求める心を起し、女性であることをきらったとして、命を終えて後にふたたび女性の身となるようなら、わたしは決してさとりを開きません。

 世尊よ。わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる女人たちがわたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の身を厭うたとして、(その女人たちが)(この世での)生を脱してからふたたび女人の身をうけるようなことがあったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

『無量寿経』(梵文和訳)/岩波文庫 より

  私の目覚めた眼の世界では、あらゆる世界の女性たちが、私の名、南無阿弥陀仏の声を聞いて、心から喜び、道を求める心を発し、女性としての自分を乗り越えようとするに違いない。その人のいのち終わるとき、自分が女性であったことを心から感謝できないようであったら、誓って私は目覚めたなどとは言えない。

『現代語訳 大無量寿経』高松信英訳/法蔵館 より

 諸師がたの味わい

 今の第三十三の願と第三十四の願は、念仏生活の総願です。親鸞聖人もそう見ておられらのでしょう。この二つの願を「信の巻」に引いておられます。これから以下の願はすべて別願で、その具体的内容です。その中、第三十五願から第三十九願までは、私は私生活の願であり、第四十願から四十四願までは、社会生活に対する願だろうと思っています。
<中略>
 男だけが仏になるのではない。女でも仏になるものもあると、八才の龍女の成仏を説く『法華経』のような経典も現われています。しかしこれはいわゆる男女同権を主張しているのですが、どう見てもこれは女の負け惜しみというものでしょう。戦後、男がたばこを喫むのなら、女でも喫むぞと、いったのと同じで、言うても言うても男が標準でしょう。こういう所には本当の女の救いがあるはずはありません。足元を忘れて背のびをしているのですから。男には男の世界があるように、女には女の世界があります。桜が桜の花を咲かしたからといって、何も梅が桜の真似をしなくてもよいでしょう。
<中略>
 女人禁制は、男が山に入って、禁欲して修行しているのに、そこへ女が来ると、心が乱れて、女に触れてはならぬという戒律を破ることになるからです。<中略>それは「女は魔物である」というのと同じで、女そのものを魔物というのではなく、修行している男にとって魔物になるのではないですか。
<中略>
 昔は「女人非器」といって、女は仏になる器ではないといわれていましたが、どうもこれもわけが違うように思われます。といいますのは、これは同じように仏といっていますが、原始仏教でいう仏で、煩悩を断ち切ったアラカンのことを、仏といっていたのですから、女はこの世の執着が深いから、命終るまで欲を離れられませんから、原始仏教のものさしで計れば、女は落第です。また大乗仏教になりますと、人間関係が問題になったために、さとりの概念が変って、煩悩を断った出家ぼとけのアラカンから、自利と利他を成就した五十二段の在家ぼとけに変りました。それは人生観が全く変ったからです。
<中略>
 それに対して浄土教の説く仏は、あるがままの存在の自覚に立って、男は男の有っている徳を成就して、男仏となり、女は女の有っている徳を成就して、女仏となる。青色青光赤色赤光の、各々の有っている花を咲かしてゆくさとりですから、女も仏になることができるのです。それは女が女を辞職することではなく、逆に女が女になることです。
<中略>
 ここに「寿終って後」とあるのは、第三者が頭で、死んだら男になれますか、と受けとるから経典の言葉が死んでしまうのです。これは女自身のまごころから出る、深い懺悔の言葉です。現在只今、りっぱな女になりたい、賢い母になりたいと願っているのですが、女性本能にひきずられて、菩提心をわすれがちである。その涙がせめて「寿終って後」になりとでも、りっぱな女になりたいと、現に今心の深い所に動いているまごころの菩提心が、重い宿業の底を潜って出てきた、涙の言葉です。現在の心の深みにある願いが真実であれば、真実であるほど、こういう形をとって現われてくるのです。こういう筆法は経典の至る所に出ています。精神的な問題は、即座に解決できますが、感情的、行為的な問題は、その場で即決というわけには行きません。論にも「見道は石を割るが如く、修道は蓮糸を切るが如し」といっています。
 ここで一つ私の問題を提起します。女に対しては「変成男子の願」がありますが、男に対して「変成女子の願」はなくてもよいものでしょうか。結論から申しますと。私は男には「変成母親の願」がなくてはならんと思っています。
<中略>
母親が子にそそいでいる愛情を見て、父親たるものは、唯だ感心して傍観していてよいものでしょうか。自分も母親のように、もっとわが子に対して、父としての愛情を有たねばうそである。私も母親のようになりたいと、「変成母親の願」を発こさねばならぬのではないか。
 それでは父がわが子に対する、母親とは違った役割とは何か。私はそれは社会性と歴史性ではないかと思っています。
<中略>
 第三十五の願をしめくくります、この女人成仏の願が、念仏生活の一番初めに誓われたことは、この経典を説かれた時代が、男尊女卑の思想が強くて、すべてが男中心の社会であって、女も唯だその社会の慣習のままに従って生きているだけで、本気で自己を取り戻して、女性の個性を活かそう、という意識も低かったからではないかと思います。そうすればこの願は、たんに女性に対して、その自覚を促すだけでなく、男性に対しても、女性をたんなる享楽の道具や雑用婦としてではなく、一個の人間として、女性の有っているよさをもう一遍見直して、男性の足らん所を反省し、男の長所と女の長所を出し合って、男女協同して第三社会を創造するように、ということではないかと思います。

島田幸昭著『仏教開眼 四十八願』 より

 男性が男性自身のあり方を単純に肯定するとき、困った問題をすべて女性に御しつけてしまうのです。釈尊は、女性を通して男性である自らの問題に出会われたのです。女性を隷属するものという見方からは、自らの問題に出会うというようなことはなかったでしょう。釈尊には女性を男性より下位に置くような見方はなかったのです。だからこそ、自らのもつ体質に気づき、そこからの脱却なしに、自らの救いのないことを確信されたのです。
 男性が男性のもつ体質に目覚めることなしに救いはないでしょう。また女性においても自らのもつ体質に気づかなければ、現状から抜けだすことはできないでしょう。さらにいいますと、一人ひとりが、自らのあり方に目覚めない限り救いの道はないでしょう。
 男性は女性を通して、女性は男性を通してそれぞれ自らのあり方に気づかされ、その自らのあり方を超える努力によって、人間的成長をとげるでしょう。このように考えていきますと、正に、女性は男性によって尊ばれるべき存在であり、男性は女性によって敬われるべき存在であるはずです。このようなことを思うにつけても、私は、互いに観世音菩薩と拝まれていた親鸞聖人と恵信尼さまご夫妻の中に信の男女のあり方を見るのです。
<中略>
 立派なことやきれいなことはいくらでも言えます。しかし、その立派な、きれいな言葉が、ドロドロした現実社会の中で呻吟[しんぎん]する人間のどれほどのすくいになるでしょうか。阿弥陀如来の本願は、ただの理想論ではないのです。人間のドロドロした得体の知れない胸底を見抜いて誓ってくださった願いなのです。

藤田徹文著『人となれ 佛となれ』 より

願文には死んでから後再び女子となることはないと書いてあるのですけれども、女身を厭悪することはこの世とも死んでからとも書いていない。往生しては仏になってしまうのですから、往生即成仏と親鸞聖人はおっしゃるのです。往生して直ぐ仏になるならばそれは変成男子という名を付ける必要はないのです。
<中略>
 それで梵本を調べてみますと、三十五の願がこういう願になっております。

 世尊若し我れ覚を得たる後、普[あまね]く無量無数不可思議無比不可量の諸覚者国の諸女人は、我が名号を聞きて、信心歓喜を生じ、覚念を発起せず、又女性を厭はず、生を脱して若し第二の女性を得ることあらば、我は無上なる正等覚を証得るせざるべし。

 信を得、信心歓喜という身になって、今まで厭うた我身の女性ということを厭わないようになるのです。私はそうならねばいけないと思います。却って女性に生まれたということが本当に幸せであり尊いことであり、ありがたいことであったということがわかって、我が身の女性なることを厭わないようにならないことには男より別に苦しみが多いわけであります。女に生まれたことの悔しさというが、変に男と比べて対等にいこうとか、それ以上にいこうとかいうことを思うから一層苦しむのであります。自分は自分の悪さを知り、自分の能力を知っておるというところに、本願を信ずるようになり、そこにおいて自分の尊さを知り、自分の幸せというものがわかったならば、今まで呪うたことがあやまりで、我が身の女性なることを厭わないようになるはずです。喜となるということが真の幸せとなったことであり、そうして信ということは、そうさせたいという本願であります。

蜂屋賢喜代著『四十八願講話』 より

哲学には合理派の哲学と不合理派の哲学とがある。合理派の者は道理にかなったものをえらいと考え、不合理派の哲学者は、そうでなくして不合理のもの、すなわち道理に合わないものから道理というものは生まれてくるのである。不合理がなければ道理はない、不合理性は合理性の母である、こういうふうに考えるのである。そこで私は男女ということを考えていきたいのであります。どうも女性というものは不合理性の代表でありまして、道理を尊ばない。「それはそうだけれども」と、けれどもが無限に続いていくところに女性がある。男性は「それはそうだ」とすんでしまい、割りきれてしまう。ですから割りきれるところに男性がある。女性は割り切れない。「それはそうおおせられるけれども」と、けれどもが無限についていくところに不合理性の女性というものがある。そこで合理性を尊ぶ仏教では、当然男尊女卑である。そうして女人は仏になることはできない。けれどもその不合理性というものに、何かの意味を認める一つの宗教があるならば、女人は成仏するわけであります。不合理性がどこまでも合理性にならなければ、どうしても人間は救われないというならば、女子は一度男にならなければ到底仏になることはできない。一遍変成男子しなければ女人成仏することはできない。けれども不合理性がそのままある意味をもつならば、女のままにして成仏する、すなわち女人成仏であります。
<中略>
もしこの世の中に合理性というものだけしかないならば、この人間の道はただ剛直だけになります。こちらにぶつかりあちらにぶつかる、ただそれだけであります。そこに不合理性の内省があって、どれだけ合理化してもまだそこに無限の不合理性があるということの自覚があって、はじめて平和が現われてくるのであります。さきほど申しましたように、我は真実である。汝は虚偽であるという、そういうことのいえないところが、ほんとうに女性の目をさましたところではないでしょうか。だから「男になりせば」と理屈なしにやさしく不合理性を内省する心が、厭悪女身ではないかと私はいいたいのであります。理屈をいわないで、どこまでも理屈にともなうところの我慢[わがまま]をなだめて、つねにやわらかくしていくところに、女性が目をさました不合理性の働きがあります。で、私はそこで触光柔軟ということが、「歓喜信楽して菩提心を発し女身を厭悪する」というところへ行ってほんとうの女人成仏があり、女人は女人として仏になるのである。男になって仏になるのでなくして、女人は女人としてほんとうに女人仏になるのである。たとい変成男子といっても、女性が男性となるのではなく、女性は女性のままにして男性と平等になる。不合理性がそのまま合理性と一味の光を持つことになるのであると思います。
<中略>
いわゆる聖道自力の方では女性が妨げになるかもしれませんけれども、この他力真宗、親鸞聖人の念仏一路においては、男子と女子、男性と女性というものが、ほんとうに友達になる。法の友達になるという天地が現われてくるのではないでしょうか。釈尊のような人でも、比丘の教団と比丘尼の教団とを別々にして、それでも非常にお困りになったのでありますけれども、本願の信楽という境地まできますというと、それは困らないでよいわけである。男性という合理一点でいこうとするような人間だけでは、真宗の法はあきらかにならない。それで真宗教団には、女性というものがとくに意味をもっているように思うのであります。他の宗旨は男だけでも教団ができるかもしれませんけれど、親鸞聖人の宗旨は、弥陀の本願の宗旨は、やはり女性というものがあって一つの教団ができてくる。女性があって教団ができるということは、不合理性というものが不合理性のままで法を喜んでいくところに、ほんとうに法の尊さというものが感じられてくる。そういうことで私はまたつぎの「常修梵行の願」と見ていきたいのであります。

金子大榮著『四十八願講義』 より

[←back] [next→]


[index]    [top]

 当ホームページはリンクフリーであり、他サイトや論文等で引用・利用されることは一向に差し支えありませんが、当方からの転載であることは明記して下さい。
 なおこのページの内容は、以前 [YBA_Tokai](※現在は閉鎖)に掲載していた文章を、自坊の当サイトにアップし直したものです。
浄土の風だより(浄風山吹上寺 広報サイト)